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「アイが溢れるアイ」

「裁いてはいけません。裁かれないためです。」
聖書の中で有名な言葉の一つ。

これはどんな状態でも、裁いてはいけないということではない。

神様がまず言っていることは、
「人を見る前に自分を見なさい」ってこと。
自分の前に梁(屋根を支える横木)があるのに、
どうして相手の目の中にあるちりを取ろうとするのか。

そんなんじゃ、相手の目の中のちりなんか取れますかって話。
間違って、眼球に指ぶっ指して、相手が失明してしまうかもしれない。
だから、まず自分の目の梁を取り除けなさいと語られている。

次に神様がいってる事はなんだろう。
ココが重要なところだと思う。
僕は、この箇所を読む時、「まず、自分だなぁ」って思って終わってた。
でも、次の段階がある。

それは、「相手の目のちりを正しく取ること」
「あの人の目にはちりがついてるわ。やぁね。。わたしも気をつけないと・・・」ってのは、
イエス様が言ってたことと少しちゃうと思う。
「兄弟の目からちりを取り除くことが出来ます。」と書かれている。
イエス様は自分の目から梁を取り除いたら、そうすべきであると語られた。

誰かの問題を見た時、僕らはどんなリアクションを取るだろうか。
心の中で、「それじゃダメだ」って言うだけだろうか。
それとも、その人のそばに行って、話しをし、共に祈るだろうか。

ウェイン・コデイロ師はその著書の中でこのように語っていた。

「私たちは映画の評論家のように人生を見ることも出来るし、医者のように見ることも出来る。
評論家は批評するために映画を見るが、医者は健康な体に戻すために見ます。
医者が問題点を探すのは、治療するためですが、映画評論家が問題点を探すのは、それを批判するためです。」

互いに愛し合うために創られた僕たち。

僕たちの目はどのような目だろうか。

あら捜しをする目だろうか。

それとも、医者のような目だろうか。
僕はこのような目を持つことが自分の梁取り除くことに繋がっていると思う。
正しさを基準にするなら、いつまでたってもこの段階には入れないと自分を見ると思う。
梁を取り除けるとは、その人を愛する気持ちをもつことなんじゃないだろうか。
愛の溢れるアイ(目)

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